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日本におけるラミー生産の沿革について

(1)明治以前
ラミーは、生産面では専ら″苧麻″(大正以前の在来種・野生種は”からむし” “まお” “からそ”等)と呼ばれ、終戦後かなりの年月がたった昭和三十年前後から各方面でラミーと呼ばれることが多くなったが、″からむし″の起源は詳ではなく、中には史前帰化植物説を唱える人もある。その当否は別として、野生状態にあって繊維の利用が比較的容易に出来たことから、神代以来衣服や綱等として使用されていたことは古事記や万葉集等によって容易に推測される。考古学的には、弥生前期(紀元前300年頃)の綾羅木遺跡から出土した″からむし″の布断片(緯糸二〇本経糸一八本/傳押砲日本最古の繊維利用の証として確認されている(織物の日本史―遠藤元男著)
 栽培の記録としてはずーと降って醍醐天皇の延喜五年(九〇五年)に、越後国外二十五カ国に産する麻布(越後上布)をもって庸・調とした事が延喜式に記されており、当時こ
の地方で″からむし″が盛んに生産されていたことが窺える。更に降って正親町天皇の天正年間(一五七三〜九二)に上杉氏がその領域越後に於いて、″からむし″の栽培と上布の製織とを奨励して調とし、又織田信長に麻布一千反を贈ったとも伝えられている。その後上杉氏が会津・米沢に転領されると共にこれらの地方でも″からむし″の奨励が行われたため同地方は我国有数の生産地として長く命脈を保った(明治・大正年代を通じ、山形・福島・新潟・秋田県等栽培条件が好適でない北国での生産が多かった事がこの間の事情を物語っている)また南方では島津藩が″からむし″をもって上布を製織することを奨励したので、鹿児島・沖縄においても古来その栽培加工が発達した。徳川幕府の寛永年間(一六二四〜四四年)に礼服として麻の裃が用いられるようになって、麻布の需要は飛躍的に増加し元禄・享保時代(一六八八〜一七三六)その生産は最盛を極めた。然し明治年代となって、服制の変革や安価な綿布の増加等があって″からむし″の生産は逐次減少し、明治二〇年に約二〇〇〇トンと記録されていた生産量が明治末期には四〇〇トン程度にまで減少している。


(2)大正から昭和初期
大正年代に入って苧麻の生産は引きつづいて減産傾向を辿ったが、苧麻の紡績工場は、折から軍需景気に沸く亜麻紡績の刺戟をうけた事や精練技術の開発をみた事等によって、従来の手紡ぎ家内工業から企業化への気運が盛り上がり、苧麻紡績会社の設立が相つぎ(東洋麻絲紡績株式会社(現トスコ株式会社)の設立は大正7年)苧麻工業は著しい発展を遂げた。これに伴って原料苧麻の需要量は飛躍的に増大したがその原料の殆どは支那産に頼る以外になく、当時の年間輸入量は一〇,〇〇〇トンを超える状況にあった。このような状勢から農商務省は苧麻を国内で生産することを企画し、大正六年栃木県農事試験場に鴛海文彦技師(昭和二二年東洋繊維株式会社(現トスコ株式会社)入社、研究部長を等歴任)によって各種試験が開始された。まず栽培の基本とも云うべき品種の選定については、南方系のものも導入した比較検討が行われ、大正十二年に台湾系の白皮種の成績が最も良いことが確認された(この白皮種は後年宮崎農試川南分場で選抜された細茎青心種と共に、我国二大品種として生産の拡大に大きく寄与した)一方適当な剥皮機がないため繊維の採取は専ら手工に頼っていたが、フランスで開発されたフォール型剥皮機を原型とする国内向け改良型が、石井式、池田式、清藤式と相ついで製作された事もあって、苧麻生産上に於ける大きなネックが解消し、その栽培は極めて有望視される状況になった。

ラミー原草の剥皮風景
 ラミー原草の剥皮風景(写真は東繊式剥皮機、昭和二三年当時) 

加えて昭和四年には暖地に於ける苧麻の試験を行うため、宮崎県農事試験場、川南分場が苧麻指定試験場に追加指定され、ここに国産苧麻推進への基礎固めが確立するに至った。


(3)昭和初期から終戦
昭和の初期における国内苧麻紡績業者は、東洋麻絲紡績(現トスコ株式会社)東京麻糸・帝国製麻(現帝国繊維株式会社)等七社で、その使用原料は前述の通り殆ど支那からの輸入によって充足され、国内生産は昭和八年で僅か一六〇トンと需要量の一%程度を占めるにすぎなかった。
 そこで需要七社は、苧麻製品が一般必需品であるばかりでなく、軍需品としても将来その発展を期すべきもので、原料苧麻の国産化は国策上から極めて重要でるとして、農林省に対し苧麻の増産奨励について陳情を行った。このような事から昭和九年に、苧麻生産奨励金交付要綱が制定され、苗圃の設置、苗・剥皮機の購入等に対する助成策が実行されたため苧麻の生産は漸次拡大し、北は山形・宮城県から南は鹿児島県に至るまで三十数県に亘って栽培されるようになった。
 昭和十二年日支事変が始まると麻類の需要は急激に増加し、昭和十三年国内苧麻繊維は総じて軍需品や漁網糸用に供出するよう統制され、昭和十五年には重要国策として麻類の計画生産が行われる事となった。即ち苧麻については六〇〇〇トンの生産目標が定められ、各種増産奨励施策が強力に推進された結果生産量は飛躍的に増加し、昭和一六・一七年には五〇〇〇トンを超す状況となった。然し乍ら第二次大戦の激化に伴って食糧事情の窮迫や肥料・石油等の生産資材、更に労力の不足等によって生産は漸次減退をきたし、終戦時における苧麻の生産は最盛期半減の二六〇〇トンへと減じ、昭和二十二年には四四〇トンと昭和八年に本格的奨励を始めて以来の最低を記録するに至った。
(注)東洋麻絲紡績三原工場が陸海軍の管理工場に指定されたのは昭和一三年でその後昭和一九年には軍需会社の指定を受け、学徒、挺身隊等を加えて増産操業を行った経緯がある。


(4)終戦後の経緯
戦後は苧麻の用途も民需や輸出に切替えられて、シャツ地・服地・生尺地・芯地・蚊帳。漁網糸・縫糸等として需要の拡大をみる一方、輸入原料の途絶や、国内産の減少等もあって原料事情は極端に逼迫してきた。従って需要四社(東洋繊維(現トスコ株式会社)・日本繊維・東京麻絲・鐘淵紡績)は農林省に対し、再度国産苧麻の増産に積極的に施策を講じられるよう陳情すると共に各社夫々の対応を行った。
東洋繊維は主産地である南九州地区(苧麻の栽培地は年と共に漸次北から南に移動し、中でも九州南三県=熊本・宮崎・鹿児島=がその生産条件の好適することもあって全国生産量の大半を占める趨勢にあった)の推進基地として、昭和二十二年に熊本市立田山(120ha)に苧麻の試験農場を開設し、品種改良や栽培に関する試験研究を行って苧麻生産者への啓蒙を行い、略々同時期に開設した熊本・宮崎出張所の活動と併せて増産意欲の向上に努めた。

立田山農場のラミー刈り入れ風景
  立田山農場のラミー刈り入れ風景

かくして国産苧麻は再び増産の途を歩み、昭和三十年には四〇〇〇トン近い生産量を挙げるまでに回復した。丁度この時期、麻業界は不況の極に達し生産は急速な減少をみた。然し以外に早い立ち直りと共に昭和三十二年には、原料苧麻はまたまた不足する状況となってきた。農林省は、過去の経緯を踏まえたラミー増産指導要領(公式に初めてラミーと呼ばれた)を新に作成し、需要四社(昭和二九年に鐘紡に替わって帝国繊維株式会社)の国産ラミー優先買付を条件として、一六八〇haの限定面積によって三〇〇〇トン(当時四社の需要量約四〇〇〇トン)の生産を目指す事とし、昭和一七年設立以来、国産麻類の増産活動を行ってきた植物繊維生産協会に、ラミー生産合理化推進協議会を設置して、刈取機や自動剥皮機の開発を目指す等ラミー生産再復興に向かって懸命の努力を傾注した。にも拘らず当時ブーム状態であった畑地の開田や有利な園芸作物に押されて、更には労力不足も加わる等して逆に漸減の一路を辿り生産者はラミーに対する栽培意欲を全く喪失し、昭和四十一年には一〇〇トンを割る状況となり昭和四十五年の八トンを最後として、国産ラミーは全く姿を消すことに至った。
一方、三十年代からフィリピン、四十年代からブラジルの生産、輸出が本格化していたことにより、日本におけるラミー産業が引き続き順調に推移したが、現在では中国が栽培の主産地となっている。

参考文献  「麻の知識」 山守 博 会長著
  「東洋繊維 50年史」
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